中村勘三郎さんが亡くなったというニュースを聞いて思わず声を上げてしまいました。
彼はもちろん偉大な歌舞伎役者で俳優で著者で、まさに日本の文化財のような方ですが、私にとっては、同世代であり、浮かれた青春のヒーローのような方だったのです。
村上龍さんのリューズ・バーが終わって、勘九郎さんの「今夜はKANKUROU」、このふたつの番組は、なんていうか、バブルの象徴みたいな番組で、あの頃の彼らのやんちゃで勢いがあって、しかも余裕たっぷりの生活が、彼らとゲストたちの会話を通じて、それこそシャボン玉みたいにテレビの画面から虹色に輝きながら舞い降りてきたことを思い出します。
田中康夫さんの何となくクリスタルのような都会人の自嘲気味な軽薄さではなく、彼らの会話は、くだけているのに知的であり、そのバランスが心地よく心に同調して、
頷いて笑ってしみじみして、とにかく毎回自分勝手に「同士」と思えることが嬉しくて欠かさず観ていたことを思い出します。

大原麗子さんが亡くなり、勘三郎さんが亡くなり、思い出がひとつ、またひとつと切り取られて行くように感じます。
歳を取れば順番だから両親が亡くなったり、子供の頃に憧れていた俳優が逝ったり、悪い知らせが増えてくるのは仕方のないことかもしれません。
でも勘三郎さんの死去を耳にして、
歳を取るということは、記憶が薄れることではなく、憧れていた存在や、思い出を分かち合える人の存在がひとつずつ欠けていくことなんだということに気づきました。合掌。

ちょっと考えてほしいことがあります。
日本での日本人の比率は98.5%。つまり思想の違い、意見の相違があっても、基本的に気心の知れた日本人だけ、単一人種国家です。
もしも、やや経済停滞気味とは言え、まだ世界第三位の経済大国である日本に豊かさを求めて、近隣諸国からどんどん密入国者が押しかけ、子供をわんさと作り、気がついたら国民の半分がそれらの子孫たちになったらどう思いますか?街に様々な異国タウンが形成され、学校も異人種の子供達が机を並べる。人々は日本語以外の言葉を覚え、様々なミックスのハーフの子供達が増える。国際的で素晴らしいじゃないかと思うかもしれない。確かに様々な国の文化を学ぶことは子供達にとっても良いことである。でもそういう子供達が大人になって、日本の文化が否定されたり法律が彼らの都合のいいように変わっていったら、それでも良いことと納得するだろうか?
幸いと言っては失礼だけれど、日本では生まれた場所ではなく、親の国籍で子供の国籍が決まる。実際には偽のパスポートや身分証明書で入国した子供達が学校に通っている例が無いわけでもないけれど。
アメリカでは親の国籍や合法非合法のステイタスは関係無く、不法滞在者の子供達であっても市民権は与えられ、学校にも行けるし、生活保護も仕事も選挙権もアメリカ国民としての権利は全て同等に与えられる。
今、そういう子供達が大人になって、アメリカの政治を動かし、法律を作り変えて行く。

アメリカは移民の国である。純粋なアメリカ人はアメリカン・インディアンだけなのだ。
そのことは別の機会に触れるとして、かつてアメリカを目指した入植者たちは寒さや飢えと戦いながら、死に物狂いで働いてこの国を世界一の経済大国に作り上げた。彼らの犠牲無しに強いアメリカは生まれなかった。
ところが同じ移民でも、今アメリカを目指してやってくるのは、第三世界から経済大国アメリカの恩恵を求める人々。飢えも凍えも無く、死に物狂いで働かなくても国がなんとかしてくれる。その結果国民の47%が税金を払わない、つまり働かず国の恩恵を得て暮らす国になってしまった。当然国力は弱体化し、財政赤字は一兆6000億ドル。この天文学的数字はこの先どう推移するか、誰にも予想がつかない。いや、予想出来ても怖くて触れたくないだけかもしれない。
そして当然だがその47%の国民にも選挙権がある。第三世界から救いを求めてボードに乗って来た人々の子供達も、アメリカに住むためだけにアメリカ人と結婚して永住権を得て離婚した人々とその人々が祖国から呼び寄せ、生活保護を受ける人々にも選挙権がある。
今回の大統領選挙はこれらの人々の大きなサポートによってオバマ大統領が再選した。強い意思を貫いてこの国に立ち降り、畑を耕し、狩猟をしてアメリカン・ドリームを手に入れた人々の開拓精神は、このまま消えて行くのかもしれない。そのことを、開拓者たちの子孫である友人たちが嘆いている。
この国は別の国になってしまった、と。それがAmerican Way、この国の現在の有り方だと言われれば、それで仕方ないのかもしれない。でも本当にそれでいいのだろうか?
さて、これと同じことが日本で起こったら、あなたはどう感じますか?
それでも「弱者を救済すべき」と綺麗事を胸を張って言えますか?

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今日、久しぶりに中島みゆきの「時代」を聴いていて、今日は別れた恋人たちも生まれ変わって巡り合う」と言う歌詞にふと思ったことがある。これは、仏教の理念、輪廻である、と。
日本人は一般的に子供が生まれると神社で参拝、つまり神道、結婚式は神社で神道だったり、教会でキリスト教だったり、人前結婚なんていうのもあって、でも死ぬ時は多くの人々がお寺、つまり仏教で送り出す。節操が無いと言えば無い。そういう意味で、多宗教というより無宗教と言われる日本人だが、実は私たちの心には気づかないうちに、仏教の教えが浸透しているのではないかと気づいた。
大昔、聖子ちゃんが郷ひろみとの破局会見で「今度生まれ変わったら絶対一緒になろうね」と言ったのもしっかり仏教しているわけだ。
仏教というのは、全ての欲を捨て、滝に打たれたり、精進料理を食することだけでは無い。法事やお墓参りはもちろん、こういうちょっとした恋愛事や、北枕を避けたり、困った時の神頼みも、食事の前の「頂きます」も、信じるという気持ちが宗教であり、それが国民性や文化に繋がるものなのだと改めて感じた。

このところピンクスライムを肯定するウェブがたくさん出て来てます。
Lean(ローファット)の挽肉を生産するには、ピンクスライムが一番安全で、O157などのバクテリアから消費者を守ると、このウェブでは断言しています。ピンクスライムが嫌なら、オーガニックの挽肉、でもオーガニックはその日のうちに調理しないとバクテリアが繁殖しやすく返って危険。
挽肉や乳製品など、昨今はローファットが主流ですが、本来含まれる脂肪を減らすためには、化学物質の力を借りる必要があることは、あまり報道されませんよね。健康やダイエット目的のためにローファットを選ぶと、こういう化学物質を体内に入れることにもなります。
ウェブではアンモニアは元々牛肉に含まれるもので、人間の体内にも元々存在するもので安全であると言っています。イメージは極めてグロですけどね。
我が家は牛乳も牛肉も味が嫌いなのでローファットではなく、フルファットのものをし愛用しています。だから安全とは言い切れませんが、私が子供の頃はローファットなんて存在しなかったけれど、みんなもっと健康でしたよね。
ダイエットは化学物質の力を借りるより、美味しいものを適量に、というほうがいいのかもしれません。
脂肪たっぷりのハンバーグを食べるときはフレンチフライだけでなく、甘くないピクルスや、トマトを添えてね。
何事もほどほど。ローファットに頼るより、運動をして脂肪を燃やすべき、まずはエレベーターより階段。節電にもなるしね。

http://www.teapartynation.com/profiles/blog/show?id=3355873%3ABlogPost%3A1944657&xgs=1&xg_source=msg_share_post

キッチンのシンクの上の窓辺にハーブのブーケの鉢植えを置いています。以前は庭で大々的に育てていましたが、ラスベガスは気候がいいので増え過ぎて、隣人友人に差し上げるのも限度があり、今はトマトなどの野菜を育てています。
窓辺のハーブは、家族3人にはちょうど良い速度で育ってくれるし、見た目も爽やかで、眺めるだけでも気持ちがいいのでとても重宝しています。
昨日もバジルを使ってキノコのトマトソーススパゲティを、タイムとイタリアンパセリを使ってマヒマヒのココナツカレーソースを作りました。フレッシュなハーブの美味しさは格別ですね。
昔、「卒業」という映画の中で流れていた、サイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」という曲が大ヒットしましたね。

♩スカボロフェアに行くのかい?
パセリ・セージ・ローズマリー&タイム・・・・・♩

我が家のハーブは、スカボロフェアの窓辺の鉢植えバージョンです。

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http://www.youtube.com/watch?v=mKPpLpam6P0

親しい編集者がこんなビデオを送って下さいました。
原発のビデオ、ちょっとかなり衝撃的でしょう。これは本当に本当でしょうか?
嘘には見えないけれど、私たちはここまで騙されている?というのが非現実的すぎて頭の中で上手く咀嚼できないです。
私は原発賛成派と言い続けてきました。資源の無い日本で私たちが日常生活で必要とする電気を原発無しで供給するのは不可能だし、ヘアドライヤーや電動歯ブラシを使用している私に反対を唱える権利が無いから、という理由と、テロリストのスポンサーである中近東におんぶに抱っこというのが嫌だからという理由。
けれど核という一瞬で地球上の生命体を滅ぼすことのできる物質の取り扱いに「経済」が絡んで「経費の削減、利益の拡大」という経済ルールがかかわると、とんでもなく危険だということを改めて認識しました。
規模は違うけど、JALの御巣鷹山の事故のときも「金属疲労」を隠して騙し騙し飛ばしていたそうですよね。

昔、池澤直樹がインパラは転ばない、だったかな、本の中で、「原発が100%の安全性を持っていても、それを扱ったり維持したりする人間が100%ミスを犯さないという保証は無い」というようなことを書いてました。
まさに、そのとおり。それどころか、営利目的で故意の過失を犯す可能性もあると言うこと。
自足100キロで走れない人間が時速100キロで走れる車を作ってしまうから事故を起こす。時速400キロの飛行機も同じ。ボタンひとつで飛ぶ、核兵器搭載のミサイルも当然同じ。
よく言われることですが、人間の欲が文明を作ったけれど、人間の作った文明が人間を滅ぼすかもしれない。

ところで地球は、そんな文明をあざ笑っているかもしれませんね。人間がどんなに強力な破壊力のある物質を発見して凶器を作り続けても、自然は、静かに眺めている。地球の生命体で「一人勝ち」しているように大柄に振舞う人間を、ただ野放しで眺めている。本当は自然の摂理に逆らって自然をどんどん破壊していく人間に、再三の警告を発しているのに、無視し続ける人間に、リベンジをたくらんでいるかもしれない。
かつて恐竜が絶滅してしまったように、人間の繁栄が永遠だという保障はないのですから。
人間が地球を支配していると言うのはウワベだけのこと。人間の営みが地表の、卵の薄皮程度の範囲だけであるように、地球という自然の広大さを人間は知らぬが仏というように、無視し続けている。

日本が3.11で243センチ動いて、止まったから、もうお終いってわけはないと思います。
インドという島がアジア大陸にぶつかってヒマラヤが出来たように、昨今世界各国で起こっている大規模な天災や異常気象は、地球の地理の変換機のほんの小さな過程にすぎないのかもしれませんよね。

文明に「利害」が複雑に絡み合った人間社会を見直す時期が来ているのかもしれません。
マジで。
ヘアドライヤーや電動歯ブラシ無しで生きてゆけない私ですから、そんなことを言う権利も無いのですが。
当たり前に使っているもの、携帯やパソコンも含めて、それら無しでいまさら生きていけと言われても、う~ん、絶対無理。こうやってブログの更新も出来ないわけだし。
みんなそうやって当たり前に生きているわけですからね。
じゃあ、この地球の変動期に備えて、私たちは、どう準備すればいいのでしょうか???
東野圭吾のパラドックス13みたいな事態は、ひょっとしたらサイエンスフィクションで無くなる可能性だって有りえるのだから。
さて、どうしたらいいのかな?

テレビを見ていたら、とても心温まるニュースが目に飛び込んできた。

オハイオ州の小さな地方都市チャグリン・フォールズで150年以上営業を続ける工具雑貨の店が、この不景気の煽りで窮地に立たされていた。それを危惧した近隣に住む男性が40人の友人に以下のようなEメールを送った。1月21日、チャグリン工具店で最低20ドルは買い物をして、歴史的なローカルビジネスをサポートしよう。

このEメールに賛同した友人たちは次々このメールを転送した。その結果、21日当日の店内はラッシュアワー並みに混雑し、店の外には長蛇の列まで出来るという大騒ぎにまで発展した。店内は犬を連れた人、子供たち、家族連れなど、ありとあらゆる人々で溢れかえり、「買わなきゃいけないものがあったわけじゃないけど、来てみたら買わなくちゃいけないものがみつかったんだ。」という人々で、レジが悲鳴を上げて止まるという騒ぎも2回ほどあったけれど、最終的に500人以上の人々がこの日この店で無事に買い物を済ませた。

(AP Photo/Amy Sancetta)
(AP Photo/Amy Sancetta)

ウェブの強力なパワーは、すでに周知の事実である。今ではスマートフォーンやiPHONEなどで、ネット検索したりメールもオンタイムで送信受信ができる。ネットショッピングしたばっかりに広告メールの嵐にうんざりしながら、毎朝大量の広告メールの消去から一日が始まるという人も(私を含めて)多いと思う。

メールよりもっと手軽なテキストで仕事だけでなく、恋人とのやり取りまで済ませる若い人も多くみかける。テキストメッセージで恋人に振られたり振ったりなんていうのも今では珍しくない。

肉声が聞きたいという人々が減っているのはとても悲しい。メールという無機質な媒介で愛を語り合ったり、季節の挨拶を交換するのはなんだか味気無い気がする。けれどそういう私もこうやってウェブを媒介に自分の思ったことを語っているし、アメリカに住みながら日本の雑誌のライターという仕事ができるのも、メールがあってこそ。コラムの下調べもわざわざ図書館に足を運ばずにネット検索でかなり賄えるというのも事実。

今回のこのニュースは、そんな無機質だと思っていたメールが人々の心を動かした心温まるエピソードである。この小さな町の出来事は、無機質なのはコンピューターではなく、それを使う人々の心の有りかたであると教えてくれたのだ。パソコン嫌いで万年筆を使う作家は多い。お礼状をちゃんと書く人もいれば、メールで済ませる人もいる。どちらがより偉いかベターであるかではなく、どのくらい心をこめるか、送る人の気持ち次第なのだということに気づいた。忙しさにかまけてお礼状が先延ばしになってしまうなら、即日メールでお礼をしたほうがよい場合もある。たとえ肉筆でも店やレストランからのものを読まずに捨ててしまう人も、メールだと取り合えず読むという人もいる。そこは臨機応変に対応すればいい。個人のお付き合いは肉声肉筆に勝るものはないけれど、多くの人々に呼びかけるならインターネットの力を利用しない手は無いのだ。

21世紀はインターネットの時代。20世紀後半から世界の長者番付がソフトウェアの会社のオーナーで占められるようになり、その傾向にはますます拍車がかかる一方。自分が育った環境にはパソコンは無かったから、どうも苦手だというだけの理由でコンピューターを毛嫌いしたら化石と言われる時代。手紙も電話もパソコンもそれぞれ一長一短、通信手段としては同じレベルなのだ。それらのツールを賢く使い分けることができるのが21世紀の人類であると言っても過言ではない。この先、22世紀に届く前にもっともっと驚くべき通信技術が進んでいくことは間違いないけれど、古い手段を捨てずに新しいものを上手に「温故知新」していくことが大切なのだ。

10歳の娘はクラスの大半が携帯を持っているという事実を父親に叩きつけて、iPHONEをまんまとゲットして、外出中の私にせっせとメールやテキストを送って来る。それが良いことか悪いことか未だに答えが出せないでいる私である。クリスマスカードや年賀状、お礼状はやっぱり肉筆で送りたいし、恋人を簡略化した文字で振ってしまうことはどうかと思うけれど、メールの力を利用して近所のお店をサポートする、こんなメールの使い方だったら大いに有り、と拍手を送ってしまった私でした。

娘のカリナのクリスマス、アイスショーがありました。フィギュアの生徒がみんな出演して、クリスマスソングでアイスダンスを踊ります。
氷の上で幸せそうに踊る少女たちとカリナを観客席で布を身体に巻きつけながら観ていて、冷蔵庫のように寒いのに、暖かい気持ちで胸がいっぱいになりました。
 

わが娘は親の贔屓目で見てもオリンピック目指すような才能は無いし、シリアスな選手たちのように毎日5時間以上滑っているわけでもない。それでも週3~5日の練習、フィギュアスケートはフリースタイル以上のクラスになるとプライベートレッスンのみだからレッスンは高額だし、早起きしなくちゃいけないし、スケートのためのストレッチクラスやバレエレッスンも受けないといけない。睡眠時間を削ることも多々有り、宿題しながら眠ってしまうこともある。それにつきあうママはもっと大変で、自分から辞めたいって言ってくれないかな、なんて思うことが何度もありましたが、満願の笑顔で滑るカリナを見ていて、本当に好きなんだなあって頷いて、私も幸せな気持ちになりました。

さて、今の世の中、いったいどのくらいの数の子供たちが親の押し付けじゃなくて、心から好きなことをしているのだろう。教育ママに強制されて、お受験のための塾、将来役にたつからゴルフ、教養を身につけるためのピアノやお花、スタイルをよくするためのバレエ、プロを目指して野球やサッカーやテニス。もちろん本人の意思で始める人、続ける人はたくさんいる。けれど将来の損得とか「義務」やプロフェッションじゃなくて単純に大好きなことを、日常的に続けることができる子供は、あまり多くはないんじゃないかと思う。
得にもならない、役にもたたないスケートを一生懸命練習するカリナ、何を好き好んでって、ため息ついていた私だけれど、幸せそうに踊る娘を見ていて、本当に好きなことをさせてあげられて良かった、って心から思いました。

子供の幸せに必要なのは将来のための習い事ではなく、心から好きな習い事なのだと確信した夜でした。

 

 

慌しい朝の時間、テレビでつけっぱなしのニュースを耳で聞き流していて、信じられないニュースに、娘のお弁当を詰める手を拭き、テレビ画面に見入ってしまった。

アメリカ国内で処方箋の薬が不足している。白血病の患者が薬待ちで放射線治療を受けられずにいるという。

薬が足りない?治療が受けられない?

ARE YOU KIDDING?(冗談でしょ?)キッチンタオルを持ったまま、思わず叫んでしまった。

この国に何が起こっているのだろう?S&Pのアメリカの長期信用格付けがAAAからAA+に格下げになった事実はつい最近のこと。その時、アメリカ人ではない私は多少客観的に「この国もレベルが落ちたものだなあ。」と思いながらも、景気悪いもんね、と納得してしまっていた。日本のバブル時期に二十代から三十代を過ごした私にとって、アメリカのこのところの大恐慌は。日本のバブル崩壊と同じように「風呂敷を広げすぎた結果」と単純に考えていた。

けれど、アメリカと日本では国家のベースが違う。日本には全くと言っていいほど資源が無い。おまけに地理的にも太平洋の極東に位置する島国である。それにひきかえ、アメリカには広大な土地と恵まれた資源、自給自足が可能な農業、牧畜、漁業、飛行機、車産業、そしてマイクロソフトやアップルなどの、世界屈指のソフト産業、全てを手にしていると言っても過言ではない。そのアメリカが大恐慌、失業率二桁、重病を病む患者に薬を提供することもできない。いったいどういうことだろう?

私の知っていた日本やアメリカでは物が過大に溢れ、病院にはもちろん薬が溢れ、逆にお金儲けのために処方過多の問題が起こった話は聞いたことがあっても、不足の事態というのはにわかに信じがたい事実である。東南アジアや東ヨーロッパの発展途上国で薬が不足しているのではない、宇宙に人を運びWINDOWSやiPOHNEを作り出した国である。

アメリカは第三世界になってしまったのだろうか?

キューバ出身の女性が私にこんな話をした。

キューバという国はもう終わりよ。共産主義の独裁者に国を盗まれてしまったから。最初は全然気づかなかったのよ。彼らは狡猾にゆっくりとそれを進めていたから。いくつかの企業が国営化し、学校や病院や銀行が国営化し、隣町の土地が国営化し、気がついたときには、全部国のものになっていた。その段階で個人の資産も個々の自由も全て奪われていたのよ。

彼女のご主人は全てを失う前にそれに気づいて、アメリカに企業を起こし移民としてこの国で再出発をしたという話。

国の規制が増えると流通が滞る。国の承認無しでは売買できなくなるからだ。うちの娘の好物、チキンラーメンが昨年、日本食品のスーパーから突然消えてしまって、店主に問い合わせたら「規制が変わってこちらで作らない限り、輸入できなくなってしまったのよ。」とのこと。ラーメンの一ブランドくらい、大した問題では無い。がっかりする娘に中華三昧を与えて我慢させれば言いだけの話。娘が「そのうちにお蕎麦も買えなくなるかもね。」と蕎麦好きの私の肘を小突いた。ラーメンと蕎麦ねえ。そんな風につぶやきながら店を出る。でも本当にそれだけだろうか?資本主義はひょっとしたら、キューバ女性の話のように、そういう何でも無いところからじわじわ壊されているのかもしれない、なんて考える私は被害妄想だろうか。

今、アメリカの資本主義が崩壊しつつある。民主党のオバマ大統領が極左の大統領だから、と人々は単純に言うけれど、本 当にそれだけだろうか?アメリカ大統領の力は大きい。世界一権力があると言っても過言ではない。でも彼もひとりの人間である。いくらアメリカ国家の指揮権を握っているといっても、ひとりの力で資本主義国家を共産主義国家に変えることはできない。オバマ大統領を選んだのはアメリカ国民である。

民主党はブッシュが国をだめにしたと言い、共和党はオバマ政権が国を潰そうとしていると言う。彼らはひょっとしたら確信犯かもしれない。でも無意識にアメリカという巨大な岩を二億人総出で押して崖から突き落とそうとしているのはアメリカ国民の無意識と無知、ブッシュやオバマを選んだ国民の意識が社会主義化、共産主義化しているのではないだろうか?そしてもしそうだとしたら、どうしてアメリカ国民は自国の原点である「開拓精神」と「資本の自由」を自ら捨て去ろうとしているのだろうか?

私はこの国で選挙権が無い、永住権を持った日本人である。けれど最愛の夫や娘や、働く機会を与えてくれたこの国を日本と同じくらい愛している。そして、アメリカ市民ではないからこそ、この国を外側から見る機会を持つことができる。

ポリティカルサイエンスを学んだわけでもなければ、アメリカの歴史を充分に学んでいない、まして日本生まれ日本育ちで選挙権も無い私がこの国の政治を語る筋合いは無いかもしれない。大きなお世話と言われるかもしれない。けれど自動的にアメリカ人として生まれたわけではなく、自ら選択してこの地で生活しているからこそ見えること、語れることがあるのではないだろうか。専門知識ではなく、日々の生活で体感するこの国のクライシス、そしてまだ充分に存在する開拓精神と資本主義を受け継ぐ人々の生の言葉を、海の向こうの日本人に日本語で語ること、日本で報道されないアメリカの現実を主婦であり、母であり、米国企業の雇用者である私の目から話してもいいんじゃないだろうか。

アメリカがくしゃみをすると日本は風をひくと言われるが、アメリカが破産したら、日本はどうなるのだろう。それは決して対岸の火事で終わる話ではないのだ。

 

もうすぐクリスマス。アメリカのリテールはこぞって店をクリスマス・デコレーションで飾りつけ、年始年末の商戦に向けて準備万全というところ。

さて、戦後最大のリセッションだ、不景気だとメディアが騒ぐアメリカで、高級ブランド店の売り上げが前年比20%アップと言うニュースが流れた。けれどアメリカ人の消費が増えたのではなく、中国人観光客のおかげというのが実態。久しぶりに日本へ帰国して訪れた銀座でも、ブランド店を占拠していたのは日本人ではなく、中国人たち。この数年の中国パワーは本当にすごい。エルメスに勤務する友人の中国人顧客は、クロコダイルに18金とダイヤモンドのバックルがついたバーキンとケリー、それぞれ20万ドル以上のバッグを各一個お買い求めになったそうだ。ハンドバッグ2個で40万ドル。(日本円で3千万円になる!)。家が買える値段だ。イタリアとフランスの高級ブランドは中国人景気で盛り上がっている。売れるものも売れないものも、取りあえず中国に送れという状態だそうだ。

そんな中国人の観光客を眺めていたアメリカ人が「かつての日本人みたいだね。」と言うのを聞いてショックを受けた。バブル時代の日本人ってそんなに下品だったっけ、とちょっと反発したくなる気持ちを堪えて、あの時代のことをふと思い出していた。

確かにあの頃の私たちは浮かれていた。ランチタイムには20代のOLだってお箸片手に日経新聞を読んでいたし、一ヶ月の株の儲けが給料の数倍なんてのが珍しくない時代。タクシー券は会社から束でばら撒かれ、そのタクシーは近距離に乗車拒否、白金にフェラーリが1ダースほど並び、ホテル西洋のパストラルのクリスマス・イブ・ディナーは10万円以上かかるにも関わらず、席を取るのが至難の業で、ようやく確保して行って見れば私たちと同じ30代前半のカップルで溢れていたっけ。海外旅行に出れば、ロスアンジェレスのビバリー・ウィルシャーに泊まってロデオ・ドライブで数時間、100万くらいあっという間に使っていた。私自身、しっかり巻いた髪と化粧と買い物袋の数をディスプレイしてロデオやビア・スピーガを闊歩して、日本人の恥をばら撒いていたわけだ。

あの時、突然経済大国世界一になった日本人は有り余るお金をわかりやすい方法で浪費していた。ゴッホやシャガールに法外な値段をつけて落札し、演歌歌手が実業家になってハワイのホテルを買い漁り、エルメスやフェンディーの金のバックルが帝国ホテルのコーヒーショップを埋め尽くし、香港のペニンシュラのブランド・アーケードでは関西弁の団体が「お父さん、シャネルここここ」なんて叫びながら店を空っぽにし、そんな日本人に対して、ルイ・ヴィトンでは印刷された番号を配り、入れ替え制で対処する始末だった。

さて、現在の中国人とかつての日本人の知性のかけらも無いような遣いっぷり、アメリカ人の目線では同じであっても、根本が違う。あの時の日本は一億総アッパーレベルであったのに比べ、中国はトップ数パーセントが富を独占し、残りは奴隷さながらの労働条件で「働かされて」いるということ。つまりそういう奴隷の低賃金という犠牲の上で、この中国バブルというピラミッドが積み重ねられていると言う点。なぜなら、中国の基本はマルクス共産主義、それに独裁主義も加担しているから始末が悪い。民主化したと言っても、経済の折り合いをつけるために資本主義を利用しているだけ。それに比べ日本の基本はアメリカが資本主義を押し付ける以前から、資本主義の基礎は出来ていた。天皇が独裁者であったか否かは賛否両論いろいろあるが、私から見ると天皇はあの時代、むしろ神に近い神聖な存在、日本における宗教だったと思う。日本人は神としての天皇をあがめていたけれど、恐れてはいなかったんじゃないだろうか。だから各国の独裁者たちと同レベルで比較することはここでは控えたい。アメリカの介入があって、資本主義と民主主義が加速されたのは事実、けれどそれ以上に日本人の「大和魂」から後継されている、日本人全体の「清く正しく美しく」的な実直な勤勉さが、日本を経済大国に押し上げて行ったのだと思う。

最近のアメリカ、店に行って商品をひっくり返すとなんでもかんでも中国製。服、靴、キッチン用品、電化製品、玩具、シーツやタオル、中国製じゃないものを探すのは至難の業である。それでも中国製を拒否して、なんとか別の国で作られたものを探す。現在の中国とかつての日本を並列に比較されることにひとりで腹を立てて、必死に他国製のものを探す。そんな私に夫がこんなことを言った。彼が小学生の頃、1960年代、アメリカには日本製の商品がどんどん入っていた。彼の母親が商品をひっくり返して、「やだ、日本製、粗悪品ね」と眉を顰めるのを、隣で見上げていたという。それが10年度には「日本製=高級品」に変わっていったのだ。彼の母親は当時としては珍しく日本へ観光旅行に出かけて、日本人のホスピタリティーと礼儀正しさ、国としての美しさに感動して、彼にこう言ったそうだ。「日本という国ははアジアのは属していないわ。あの国は西洋よ。」

そう、バブルの頃の「かつての日本人」はちょっと生意気になって、鼻持ちならなかったことは認めよう。でも、日本人は一時的に下品になったとして、礼節だけはわきまえていたと言いたい。高級店で靴や服を試着して床にばら撒いたまま店を出たり、試供品のリップスティックのふたも閉めずに散らかして、ショーケースのガラスを汚しても平気な中国人と一緒にされるほどの無礼講は無かったと思いたい。まあ、ひょっとしたら中にはそんな輩もいたかもしれないし、落としていく金額の桁も今の中国人に比べれば地味だったかもしれないけれど。

アメリカに住んでいて、9.11とパール・ハーバー、中国人と日本人が比較されるたびに「それってちょっと違うんじゃない」とついムキになってしまう私である。それでもブランド店を空っぽにする中国人の団体を眺めながら、林真理子さんも書いていた、「あっこちゃんの時代」をふと思い出して、「あんな時代もあったなあ」なんて懐かしく思ったりするわけだ。あの時代を生きていた私はラッキーだったのかアンラッキーだったのか?馬鹿馬鹿しいほどに札束に溢れていたそんなバブル時代を知っているというのは、貴重な体験だったことだけは確かだ。そう、バブルは甘美な思い出として、私の中に残っていることを清く正しく美しく認めようではないか。だからこそ、その思い出を踏み滲み、日本を経済大国3位に押し下げた中国人の桁違いの散財に神経を逆撫でされてしまうのかもしれない。